愛知用水-水源探訪#012016/12/18

12月16日金曜日
 仏滅ですが、天気が良いので木曽路に出かけました。目的は愛知用水の主な水源である牧尾ダム(1958/1961)と、比較的新しい時代に作られた味噌川ダム(1980/1995)の見物です。
  下図は愛知用水総合管理所で頂いたパンフレットのコピー、二つのダムの位置は写真図の右上端です。なお、用水路へ実際に水が流れ込んでくる場所は木曽川中流域にあります。主として兼山取水口です。蛇足ですが、その近くに当家の菩提寺があります。
愛知用水の水利用

 遅まきながら;自分が愛知用水の受益者であることを知ってから、これまでの1か月間に下のような資料を集め、かなり熱心な下調べをした上での訪問です。
愛知用水関係の資料
 ところが予想通り現地はとても冷え込んでいて、見学どころではなかったので、頂けるものを頂戴して(ダムカード)、逃げるように帰って来てしまった。それで以下には、申し訳程度の記録写真を展示します。
*ダムカードやパンフレット収集:同行者であるツレアイの役割です。

牧尾ダム
 到着が丁度お昼になった。長野県道256号の長大橋から撮りましたが、その橋の名称を確かめることを忘れるほどに寒かったです。
2016年の牧尾ダム
 この景色を見た瞬間、「堤体と余水吐のレイアウトが上手い」しかし「何か変?」。
「変な印象」を受けた訳を自己問答する気分は、あまりに寒くて、全くなかった。

 自宅で石油ストーブに当たりながら訳を考えた;
「変な印象」の原因は、堤体の法尻の前に「平地」があるから。

 初見で「手前に見える平地は切土の跡(原石山)」と思い込んだ。その左(右岸)には二つの仮排水路トンネルが見える。この平地が切土なら、元々は山であった筈だが、そうすると、川の位置は何処だ? 正面の堤体が川を塞いだハズ、水の出口がない! 右(左岸)に見える余水吐は岩盤に載せる筈なので、そこに流路があった筈はない、等々。
 要するに、初見であの平場を「盛土だ!」と見抜けていれば、上のような無駄な思考を巡らせることなく済んだと思うが、なにしろ寒い。
追記:無意識のうちに、余水吐が本体、ロックフィルは脇ダムと見ていたかも?


 元の地形を愛知用水グラフで眺めます。
昭和35年(1960)の牧尾ダム:
昭和35年工事中の牧尾ダム
右岸道路との比高でみて、あと10m足らずと云うところでしょうか。
左岸斜面は、山体がゴッソリ切り取られています。左岸の山がロック材の原石山ということでした。

余水吐工事の様子(昭和35年):
牧尾ダム余水吐工事
トンネルは中山トンネルです・・・それだけは確認しました(笑)

ここで改めて牧尾ダム建設計画の全体像を;
牧尾ダム・計画概要
河床の掘削が妙に深いなぁ~ と云う印象。

 河床掘削が深いので、堤高が高くなってしまったようです。現河床を基準に見ていると、100mを越えるダムには見えませんね-個人的な感覚ですが。提体積は250万立米もある! ロックフィルの提体積の推定は難しいですね。私はフィルタイプダムの経験が殆ど無いので山勘が全く働きません(笑)

 『水の思想土の理想』(高崎哲郎,2010年,鹿島出版会)によると、日本の技術者の当初計画では、ダムサイトはもう少し下流を考えていたようです。その辺りの読書記憶は残っていたので、下流の風景だけはハッキリ写して、そそくさと退散しました。
牧尾ダム下流の様子
長大橋の右岸、段丘面に展開する集落は二子持です。ダムサイト案は、右岸の地形で決まりそうですね、ソコしかないと思えるところが見え隠れしています(^^♪

あとがき:
 予備学習をして臨んだ牧尾ダムですが、到着して自家用車のドアを開けた途端に、寒風により学習内容が何処かに飛ばされた。まぁ、次回にはもう少し丹念に観察しよう。
 味噌川ダムのことは、内容に乏しいですが、次の記事で書きます。