300年史#01: チューリンゲンのパイプ製作年表2011/10/11

巻末に、”パイプ製作年表”がある。
まず、これにより300年を一望します。

パイプ製作年表
図1.チューリンゲンにおけるパイプ製造年代表(Otto Pollner:1997,p124より転載).

 【チューリンゲンのパイプ製作年表 Otto Pollner(1997)】
1700年ごろ:
アイゼナッハEisenachの山中(東レーンOstrhön)で木製パイプの製作開始。
1700年以降:
 コブルクCoburg周辺地域(1920年までチューリンゲン領)で、分離型*パイプの製作開
 始。 *原語はmehrteiligerPfeifen;複数のパーツからなるパイプ

1715年:ウルム地方のガイスリンゲンGeislingenには50人以上のパイプ職人がいたらしい。
1735年:ヨハン・ヤコブ・グレックルJohan Jacob Glöckleが”ウルムパイプ”を作る。

以下はAnton Manger,1998:p91より
1739年:ジルバッハZillbach出身のシモン・シェンクスSimon Schenksの主導により、ルーラにおいてパイプの金具部分*の製作開始。*ルーラでは、Der Pfeifenbeschlängeherstellungから始まる。つまり初めに活躍したのは ”ろくろ師”ではなく、金物職人(あるいは鍛冶)だった。
1740年以降:ルーラで木製のパイプボウルが製作される。
1745年以降:ルーラでクレイパイプとメシャムパイプの製作開始。
1760年以降:ルードルシュタットRudolstadt周辺地域に新たに建設されたチューリンゲン製陶工場において陶製パイプの一部*(Porzellanpfeifenteil)が製作される。*Tonpfeifen=claypipe クレイパイプではない。
1767年:ルーラで ”Firma Gebrüder Ziegler兄弟レンガ商会” 創立。
1798年:ルーラーに住む63.5%の人々が直接または間接的に煙草産業により生計を立てる。
1800年以降:デルムバッハDermbachからエンプフェルツハウゼンEmpfertshausen周辺域においてルーラの工場へ供給するため、パイプボウルの彫刻が産業として始まる

1802年:フランス・サンクロードで Courrieu設立 か
1806年:ナポレオンⅠ世の大陸封鎖によりパイプ産業後退。
1833年:プロイセンドイツ(北部ドイツ)関税と商業組合の創設によりパイプ産業好況。
1833年:ルーラに、美術工芸の奨励と後継者育成を目的として≪工芸商標と木工専門学校≫が設立される。
1844年:ノルウェーでPipe-Larsen設立
1860-1870年:ルーラ好景気-パイプ製品の年間輸出額が約1900万ターラー*に達する。*ターラーTalerは昔の銀貨、約3マルク(但し1970年の辞書)
1864年:シュヴァイナSchweinaで最初のパイプ工場”Aug.Reich.Söhne8月帝国の息子達”設立。
1881年:ルーラの”Gebr.Ziegler兄弟レンガ商会”において、ブライアーパイプの製作開始。
1887年:シュヴァイナに”Firma Carl-Sebastian Reichカール-セバスチャン帝国商会”設立。
1945年:東西ドイツに分断
1961年: Gebr.Zieglerのパイプ工場は経済状況により操業停止に追い込まれる。それと同時に約200年続いた会社の伝統は終焉に向かう。
1980年:メシャムパイプの最高の彫刻師であるフランツ・ティールFranz Tielの死により、ルーラで約250年間続いた”パイプ職人の時代Pfeifenmacherära”が終わる。
1990年:東西ドイツ統一
1993年:シュヴァイナにおいて、ベルリンの”プランタ・タバコdie PlantaTabakmanufakturGmbH”により、昔のカール・セバスチャン商会が新しい組織の元に再出発。新会社の名称は、”Pfeifenstudio Hubert Hartmann GmbH Et Co.KG”。*ヒューベルト・ハルトマン パイプスタジオ- *Et < &、und=and *GmbH< 有限会社Gesellschaft mit beschränkter Haftung *Co.< 商会Compagnie(Kompanie)   *KG < 合資会社Kommanditgesellschaft
原表は以上。 *注と青文字部分は管理者が書き加えた。
  
本書2.予備考察において、ルーラやシュヴァイナの歴史的推移に関して、特に20世紀の出来ごとについてもう少し詳しく述べられているが、今回は年表だけで止めておきます。

【感想】
1)予備考察の章で著者は、≪ルーラはドイツのサンクロードだったか?≫と云う、よくありそうな設問に対して、 『個人的にはNeinと答えたい、なぜなら・・・・』 と述べています。 その理由・・・は、この年表を見れば一目瞭然と思えます(ので、訳す手間を省きます;笑)。

2)ルーラでブライアーを使い始めたのは1881年。Comoyがブライアーを使い始めた1848年 (R.C.Hacker,1999:RareSmoke.p121)に比べて、少なくとも30年以上遅れています。フランスやイギリスでブライアーが使われ始めた1800年代の半ばには、ドイツの木製パイプは約100年の伝統を誇り、美術品の域に達していた。そのことが新しい材料を導入するのが遅れた要因の一つだろうと考えます。なお、Pipe-Larsenがブラーアーを使うのは20世紀に入ってからのようです。


最後に、美術品的なパイプを最後に眺めて今回は終ります。     
ドイツの工芸品的なパイプ
図2. 1925年頃に作られた様ざまなゲシュテックパイプ(花飾り風のパイプ?)
    出典はGebr.Ziegler社のシェイプチャート。 (Otto pollner,1997:p124から転載)*右図最上部の筆記体の手書き文字は、たぶんBruyère Pfeifen。左斜め下にはMeerschaum・・なんとかとあります。ボウルの腹に付けた飾りがメシャムか?
*本文には同社・同年代の別図で、ブラーアーパイプと著者が明示したこのような型の
パイプが幾つか掲載されています(別の機会に転載します)。  
                                       -続く-    

【追加】 === チブーク・パイプ ===(2011/10/29)
 以前に一度、”チブーク・パイプ”の写真を転載しましたが、何時・何処・意図を忘れました。下のコメントを頂いて、チブークを原点におけば、ハンガリアンも上のゲシュテックも夫々の歴史的位置がスッキリする気がしたので、再掲になりますが、関係資料を転載することにしました。なお下のカラー図版は、”やすらぎのオーストリア”(pp.90-91,2009,たばこと塩の博物館)からの転載です。

1)チブークのチブークたる所以は、ひとえに≪柄が長い≫こと。
 スタンダード仏和(1968)では;chibouk(m),chibouque(f);(トルコの)長ぎせる である。 前の綴りが多く使われれ、男性形、後ろの方は女性形。どちらの発音も日本語音で≪渋く
 
  コメントにある”ハプスブルク”で思い出しました。そこの貴族階級は日常的に仏語を使ってい た(と聞いた記憶)ので,”チブーク”と云う言葉はハプスブルクが”それを名指して広めた”と 見ていいだろうと思います。語源は目下不明です。オスマンには別に自分たちの呼び方が あったと想像します。ちなみに日本語≪煙管・きせる≫は現代トルコ語で≪boru ぼろ≫でした(グーグル)言葉の意味から、オスマン独自の工夫は≪柄が長い*≫にあると考えます(現時点では)。
チブークパイプ1
2)左側は、”長い筒の先端付近に、上向きの火皿が着いている”(着脱式かどうか不詳)。右側のパイプは、”長い筒の先に、L字型に曲げて作った火皿が挿してある”。
(*)両火皿の原型は、すでにマウンドパイプ(下資料:A.Dunhill,1924,p58)に似たものがある。
土塁パイプ
(The Pipe Bookより転載)

3)下のサンプルは1700年代中頃、製造は、英語解説にはドイツとしてあります。        
チブークパイプ2
写真の解説で下のパイプは、"チブーク形メシャム製パイプ”と表示してあります。
1700年代中頃のサンプルで、小さめな感じ受けます。英文解説によると、火皿(メシャム)が大きくなるのは1800年代に入ってからで、長さもそれまでは15cm以下程度だったようです。
 
1)~3)の資料を見なおして、下のコメントを合わせて脳内整理をすると、最終的には
3)図のチブーク・スタイルで火皿の軸を、45~90°ほど上向きにすれば
ハンガリアンかまたはゲシュテックに変身します。

色々な道具の基本形は、次第に使いやすい形に向かって変化するだろう。長い筒でパイプを作れば(チブークスタイル)、管楽器を保持するように使うと疲れる。長い管は鉛直に保つことが一番楽です。重力方向に沿う。管を立たせて持てば、火皿軸は自ずと管軸に対して鋭角にせざるを得ない。火種がこぼれる。他方でマウスピースも手前側に曲げざるを得なくなる。口元を強く下に向ければ呼吸困難。

熱の主な流れを一端で大きく曲げたことは、煙草パイプの最初の大きな工夫でしょうが
次のトピックスは、マウスピース側を曲げたことではないか-という思いがあります。
これは柄の長い筒を使用する時には不可欠とも思える変形でしょう。
一方でウルムクローベンの煙道は長くはない。しかし如何にも重そう。重いものを体から離すと保持には不利になる。それで近づける。近づけると煙道は必然的にか鉛直に近づく。やがてマウスピースが曲がる。マウスピースを最初に曲げたのはどこででしょうか。ウルムはかなり早期だと思います。
後にこのマウスピースの型式が、チブーク・メシャムを介して、ゲシュテックに採用される。ドイツ語圏では、火の先端から口元までの経路が主に直線の組み合わせですが
フランスで滑らかに丸められて、ブライアーベントに到達した-以上は空想です。
整理するつもりが戯言に替わりました。

何時になるか分りませんが(笑)
Otto、Mangerの本を見るとき、この辺りを意識に置いてみます。                                             以上