(訳)ハウダのパイプ産業史#062011/11/05

§11. 低迷と国際競争
 すぐに低迷期が来た。1740年頃にハウダは未だハウダ製ワッペンを付けることに反対する人とそれを禁止させようとする人達との国内問題を抱えていた。しかし間もなく1754年頃に、外国からより大きな困難がもたらされ、非常に重苦しい不安に包まれることになった。
 ハウダ産パイプの大部分は外国向けの輸出用であった。その相手国は近隣ではなく、ノルウェー、ロシア、東インドそしてアメリカなどが主であった。そこへ1754年にプロイセンの國王<1>が、パイプ1グロスに2.50fl.<Florinフローリン>の輸入関税を課すと云う事態が起きた。国王はまた、短期ではあったが輸入を完全に禁止し、オランダ産パイプを戦時禁制品にすると宣言した。それどころか輸送船の通過をも禁止<2>した。この措置を受けている期間に、2つの有名なハウダのパイプ工場-フランス・フェーセールFrans Versijl  とヤコブ・デ・ホスJakob de Vosが絶望的な状況に陥った。これらの工場は年間30,000fl.以上の商売をする大規模なものあった。プロイセンの措置は、ステッチンStettinとケーニヒスベルクKönigsbergに新設されたパイプ工場<3>を発展させることを主眼にして取られたものであった。この時点では、ライン河畔のケルンの近くにあるエーレHöhrにハウダと大きく競合するパイプ産業はまだ無く、まだ非常に困った事態という訳ではなかった。
 1750年以降のホラントには、隣接地よりもかなり高い賃金水準と生活水準が行きわたっていた。クレイパイプは非常に賃金コストが高い製品なので、他のところで低賃金でパイプを製作されるや否や、ハウダでのパイプの生産は直ぐに困難に陥いる。これがその後にエーレと競合する主原因であった。やがてハウダでは賃金は可能な限り低く抑えられ、生活費用と原料費価格は下がり続けた。そのような事態になってもハウダのパイプ同業組合は、エーレのパイプ職人がハウダのワッペンを利用して商標を偽造していると苦情を言う以外の策がなかった。ハウダ製パイプはその粘土配合が良いので、品質がプロイセン産よりも良かったにも拘らず、世界市場で直ぐにその価格が上昇することはなかった。
 ハウダとエーレにあるパイプ同業者組合の間で交わされた往復書簡は、何の修正ももたらさなかった。ハウダはエーレに価格の不当表示を止めるよう非難したが、両者の衝突に終わりを見出すことが出来なかった。未だ1760年頃にはハウダからノルウエーに向けて、短いパイプが20,000グロス輸出されていたが、1789年にそこへの海上輸送は絶えた。;この時点でハウダ産パイプはドイツ産パイプによって殆んど完全に排除された。それどころかホラントでも多くのより安いドイツパイプが仕入れられており、ハウダの組合が書いたところによると、”最高のハウダ製品”と云う表示が付けられていた! 貿易を元のような状態に戻そうと強く試みられたが、1765年の一年間にハウダからハンブルクに向けて、フリース人が漸く10艘の小型輸送船を出した程度だった。1789年には3隻以上になることもなかった。
 また、プロイセンの別の場所にもパイプ工場が設立された。最も有名なものはライン川沿いのアルヘンAlphenの3つ焼窯である;その内のホリンヘンGorinchemでは陶工の同業組合に属する職人がパイプ製作を開始した。ショーンホーフンSchoonhoven、ユトレヒトUtrecht、グローニゲンGroningenにもハウダと同じ様にパイプ工場があったが、これらの都市でもエーレとの競争に苦しんだ。 
 ハウダのパイプ産業の没落過程は、窯場数の減少によく現れている。1740年に29の窯があり、中断することなくパイプ職人がパイプを焼いていた。1789年にはそれでも未だ17の窯があったが、1806年には僅か11カ所になり、パイプ製品の数は1750年以来、1/3に減っていた。パイプ職工の親方は、1805年には未だ130人が働いていたが、自分の生業によって僅かばかりの生活費を稼いでいたに過ぎなかった。

<1>Friedrich WilhelmⅠ(1688-1740);フリートリッヒ・ウィルヘルムⅠ世
<2>Anton Mangerのドイツ・クレイパイプ史では、『違反すると逮捕された』とある。
<3>プロイセン国王の命により造られた。
*ドイツ(プロイセン)でパイプ産業が興った場所;Anton Manger図

§12. 終焉
 パイプ同業組合は公式には1660~1798年まで存続したが、それは150年に満たない。その時代は、同業組合の基礎固めの時代であり、パイプ製作者間に生じる多くの競争や紛争の下に立っていた。彼らの衝突は保護商標をめぐる争いが主だった。市議会は、初めの僅かな期間にはパイプ同業組合の面倒をみた。その最初のものは、およそ1686年ころの低迷に対してで、精力的な介入でハウダのパイプ産業を救った。
 パイプ産業の最盛期は18世紀前半の50年間であった。ハウダの製品は毎年、ヨーロッパ全土を支配し、北アメリカや東インドの諸都市に向かう輸送船が絶えず見られた。それが18世紀末には下り坂になった。フランスが支配したこの時代には完全に没落した。その後、同業者組合は親方たちの団体として再び元気を取り戻した。しかしこの団体は連帯感を引き裂かれおり、20世紀初頭に解散させられるまで困窮した団体として存続しただけであった。
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