兼山ダム見聞記#052017/01/13

1月13日 寒い金曜日
 兼山ダムは、工事を請け負った株式会社間組の<間組百年史>の本文に、ダムの名前さへ登場しないほどに、建設史が分かり難いダムです。また発電所と堤体の大部分は八百津町和知地内にあるにも関わらず、名前に隣町の”かねやま”が付けられるなど、あれこれ”分かり難さ”が漂っている・・・それが一変することになろうとは。
 
やはり地元パワーは違います-
旧八百津発電所の<資料収集展示研究会>により、古の記録写真と建設史が発掘されて
加茂地区にある木曽川水力の歴史』のなかで”兼山発電所とダム建設の歴史”pp.56-63)として紹介された(平24年発行、以後<歴史>と略記)。
 <歴史>に引用された工事記録写真は、関西電力(株)の今渡電力システムセンターに保管されているもの。同センターには今渡ダムはもとより丸山ダムの写真もあり、それぞれ<歴史>の中で、”今発電所とダム建設の歴史”、”丸山発電所とダム建設の歴史”に掲載されて、半世紀ぶりに陽の当たる場を得ることとなった。
 建設経過は、『流れとともに 石川榮次郎伝』の第35章の記述に基づいている。それを年表式に書き直し、記録写真が当該年の記述の後に挿入してある。

 石川伝次郎氏は大同電力建設部門をリードされた方で、木曽川水系の殆どの発電所建設に関りがある。この伝記を読めば、木曽川の水力発電の生々しい歴史が分かるーこの本の作者の一人で、発行人でもある有吉天川氏は、中日新聞の前々身である新愛知新聞の元経済記者。共著者の出口啓輔氏は実質的にこの著書を取りまとめた方のようです。

兼山ダム建設の時期は?
現在のダム地点で、最初の建設計画が立てられたのは大正8年まで遡る。仔細は上記資料に任せ、実際の工事期間は次のとおり;
昭和14年06月15日兼山ダム着工(日本発送電株式会社[昭14-26年]、間組施工)
昭和18年12月28日兼山ダム竣工
四年半の工事で、労務者数延べ48万人、セメント84万袋、鉄材類3千トン。
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本来の流れに戻ります。
疑問1) なぜ長いダムを造ったか?  
下の写真で、アッサリ解答が出ました(笑)

昭和11年9月11日撮影
   
昭和11年9月19日撮影
転載図版1
『認可申請に使われた堰堤予定個所写真であると考えられる』 by <歴史>

当初計画は、誰が見ても「此処だろう!」-と思うダム軸でした。
ところが洪水吐ゲートは14門で、現在のダムと同じ。
この長いダムを、”洪水時に逆流を起こす大岩壁”を掘削してまで載せる計画とは。
解答:短いダムを造ると洪水時に溢れる-水利用計画で、まず14ゲートありき。

少し納得したところで(笑)
写真手前の”白いモノ”は河床の堆積物で、主に砂利でしょうか。
ダム軸を現在ような上流に移し、砂利層を掘る方が大岩壁を掘削するより易しいと思いますが・・当初の計画案には、他にも窺い知れぬ要因が絡んでいたことでしょう。

➡現在のダム軸に変更した理由: 石川榮次郎伝から関係部分を転記します。
『・・・実施願書提出の直前、内務省の堰堤地点地質調査の結果、三紀層古成層の接触地点に接近しているという理由から、再調の申入れがあり、このため岐阜県当局は、適当に設計変更しなければ、現設計では受理できぬと指示してきた。』(p540)
*注)原文の古層は、古生層の誤植です。

再調査-設計変更の結果、上写真から上流へ60m移動させて現ダムが出来上がったという経緯があるようです。

やや長くなるので中断して、残りは次回にまわします。