(訳)ハウダのパイプ産業史#012011/10/30

§1. 発展と組織化
   ハウダではイギリスから移住した人達がクレイパイプ作りを修得した。イギリスでは1600年頃にボストンBostonやロンドンLondon、その他の港町でパイプ製造産業が興り、1615年にはすでに相当な数の工場あった。統治者ヤコブⅠ世は宗教上の迫害を加える目的で、オランダのマウリッツ皇子の軍隊にいたイギリス兵との関係を絶った。
  ハウダの住人で記録に残る最初のパイプ製作者は、ウイリアム・ベルネルツ(独語William Baernelts)-オランダではWillem Baerentsz<ウイレム・バレンツ>と呼ばれる-で、1617年にパイプ作りを生業として始めた。彼は1625年に亡くなった。彼の存命前には、他のイギリス人パイプ製作者はいない。彼は、≪冠を載せたバラ de gecroonde roos≫商標使用権を賭してライバルたちとの競争に向け準備した。
 その頃、ロッテルダムでもイギリス人たちがクレイパイプを作り始めたが、数年後には潰れたこれに対して、ハウダのクレイパイプ産業は非常に順調な経過を辿った。その主な要因は、市が優れた窯場を提供したからである。ハウダはすでに中世から続く優れた製陶の街で、クレイパイプの製作者たちは1620年には30の焼窯を利用することができた。製陶産業には古くから同業者組合が作られており、ハウダではおよそ1600年以来この産業が重要な地位を占めるようになっていた。それゆえ、"焼き賃"を取ってクレイパイプを作らせることは、新しい収入源になるとして歓迎された。
 パイプ製作者の数は絶え間なく増え続け、ハウダの住人たちもイギリス人たちの隣で新しい生業に務め始めた。1637年ではパイプを作るイギリス人の数が、同業に携わる土着の人の数より多いが、この関係は1641年には逆転した。パイプ工場は、17世紀の初期に良い生計を与えた。時間の遺言は顧客を与える-パイプ製作者は裕福な市民に必要とされ、彼らの大多数は自分の土地を取得した。
 ハウダに定住するパイプ職人たちはついには同業者組合の設立を議決し、市参事会にその旨を嘆願することになった。その同業者組合にはイギリス人を加えるべきではないとしたためハウダに住むイギリス人パイプ職人の妻たちがその処置に激しく反対した。その結果、参事会はパイプ職人組合の請願を否決した。しかし代わりに、一つの就業規則を公布した。それはパイプの製作に携わる人たち全体に向けられたもので、土地の人と在留外国人の双方に同じ厳格さを保っていた。この指示が総ての人に向けて出されたことで、それぞれの職人たちは自分自身の商標を持てるようになった。
  その後もハウダのパイプ製造者数は留まることなく増加し、新しい製作者がひしめくととになり、この時点で一つの同業者組合が創設されることになった。この時点からパイプ産業の発展を妨げるものは無くなり、同業者間の多種多様な商標もその後は規則的かつ正確に登録されるようになった。
次回へ続く.

参考図
パイプ組合の紋章
【写真の解説文】
 1735年に創設された”パイプ職人組合(Pijpmakersgilde)”の"クナープ(Knaap)"を表す銀の浮き彫り紋章。この同業組合のワッペンは(2つのパイプを夫々の頭を上に十文字に組んだもの) ルイ14世統治下の都市紋章と同じ様式の縁取の中、紋章上部に二人の子供が持ちあげる一つの王冠が置かれている。
 この紋章は、クナ―プにより彼らの尊厳を表す印として服に付けられた。クナ―プとは検査員、会計係、管理者の官職を言う。同業組合と健康保険組合(傷病と葬儀)は統合されていた。
                         
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お断り:この論説文には、おそらく歴史学の専門用語が使われていて、その幾つかには日本語の常用訳語があると思います。しかし訳者は完全な門外漢でそれらを知りません。 専ら手元にある木村・相良独和に拠って訳します。