”やま” の古本2015/04/15

最近2週間は、長梅雨で所作がなく
20万分の1地勢図や5万分の1、2万5千分の1地形図を傍らに置いて
昨春のぎっくり腰時期に,古本で買いあさった下のようなものを眺めていました。
===順不同に
「ぎふ百山」(岐阜県山岳連盟編集,岐阜日日新聞社,1975)
「続ぎふ百山」(岐阜新聞・岐阜県山岳連盟編集,岐阜新聞社,1993)
「日本アルプス」(ウェストン著・岡村精一訳,平凡社ライブラリー,1995)
「日本アルプス再訪」(ウェストン著・水野勉訳,平凡社ライブラリー,1996)
「日本アルプス登攀記」(ウェストン著・三井嘉雄訳,ワイド版東洋文庫586,2009)
「極東の遊歩場」(ウェストン著*・岡村精一訳,山と渓谷社版,1970)
「黒部渓谷」(冠松次郎,平凡社ライブラリー,1996)
「日本アルプス」(小島烏水著,近藤信行編,岩波文庫,1992)
「新編 単独行」(加藤文太郎,山と渓谷社,2010)
「【覆刻】山と渓谷 1・2・3撰修」(山と渓谷社編,山と渓谷社,2011)
「アルプスと人」(松方三郎,築地書館,1976)
「日本アルプスの自然」(小林国夫,築地書館,1972)
「山行」(槇有恒,中央文庫,2012)
「ヒマラヤに挑戦して」(バウアー著**・伊藤愿訳,大阪黒百合舎版,1931)
元ネタ雑誌や書籍として:
Rev.Walter Weston,1915:”Exploration in the Northern Japanese Alps",Geograph.Jour.,Vol.XLVI,no.3,pp.188-200.
Rev.Walter Weston,1906:”Travel and Exploration in the Southern Japanese Alps",Geograph.Jour.,pp.18-187.
*)Rev.Walter Weston,1896:Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps,reprint, Book Renaissance.(www.ren-books.com)
**)Paul Bauer,1931: Im Kampf um den Himalaja,Verlag Knorr & Hirth GMBH.
これらの挿入写真は訳本のものに比べてとても鮮明で,リアリティが違います。
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 ところでウェストン師一行は1893年(明治26年春五月)に、国鉄岐阜駅から中山道経由で恵那山に登り(笑)、天竜川を下って浜松に出て、富士山に登ってから神戸に戻ったそうです(驚),『10日間の休暇』を利用して(”日本アルプス”の第十章参照)。
 岐阜駅から加納を経由して中山道に出て、犬山城を眺めながら木曽川べりを遡って
オータ(美濃太田)の”岩屋旅館”に泊まったとか-和宮も泊まった太田宿です。
 岩屋旅館のあった場所、木曽川のどこを渡ったか、大昔の太田-伏見間で中山道がどこを通っていたかについて、昨年から気に掛けていますが、未だ確かめていません。

 文献では、木曽川中・下流域の川湊は次のような処にあったとか。
木曽川の舟運
図1 木曽川の舟運(可児町史,p904,昭和55年)

 ウェストン師一行は何処を渡ったか?については、下図が参考になるだろうか。
木曽川の川湊
図2 木曽川の川湊(可児市史第三巻,p184,平成22年)
 
 図中,”土田の渡し”と書いてある近辺に、”太田宿(美濃加茂市)”があった。
美濃加茂市史編纂の立場にたてば、ここ書くならば”太田の渡し”が相応しく、”土田(可児市)の渡し”は木曽川左岸に描くべきである、今渡もまた然り-と云ったような”縄張り意識”が、田舎者には根強く残っている(笑)。それはさておき、
 太田宿に泊まったのであれば、そのまま対岸に渡ったと想像するのが妥当なところでしょうか。現代の景観は下のようなもの。
ウェストン師の辿った道
写真1 ウェストン師一行が辿った道(平成27年1月4日撮影)

 肝心の恵那山は写真右に外れます。また”土田山”は、現地の案内板には”小天神”と書かれています。そんな呼び方は記憶に無いので、私は”どたやま”で通している。ちなみに、”可 児市”は耳障り、”カニグンカニチョウ”が馴染みます-しかし原風景は記憶に残っているだけ。なお戦前生まれで他所へ養子に出た叔父には、”イマワタリチョウ”や”ドタムラ”がしっくりくるらしい。それはともかく今から50年前-昭和30年代には
木曽川左岸に人家は少なく、黒土の畑ばかりが広がっていました。
 「カニの良いとこなんか何にもないよ。ドタ山から見える景色とサトイモくらいのもんサ」と言ったら、飛騨古川に住む若い知人F君曰く「雪が積もらない、暖かい」

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