(訳)ハウダのパイプ産業史#042011/11/02

§7. 品質
 様ざまなパイプには品質に関する厳密な区別があり、その仕様に即してパイプが作り出された。品質区分には"普通<1>”、"優良<2>”、"陶磁器製<3>”があった。それぞれの区分は詳細に定められていた。"普通パイプ”は常に大樽に入れられる一方で、”優良パイプ”と”陶製パイプ”は籠に詰められた。パイプ職人には、"普通品”だけを作る職人、"優良品”だけを作る職人、さらには"陶磁製パイプ”だけを作る職人の区別があった。また総ての品質のパイプを作る職人もいた。

*<1>と<2>が狭義のクレイパイプ,<3>は(陶)磁器パイプのようです。原文と訳語はみな同じようなものです。参考までに次の表現が使ってあります。
<1>slechte pijpen,独gewöhnlich(e),仏ordinaires
<2>fijne pijpen,独fein(e),仏fines
<3>porceleyne pijpen,独Porzellan,仏genre porcelaine


§8. 同業組合員個々の商標
 およそ1750年頃にハウダのパイプ産業は最盛期に達した。当時、パイプ職人の弟子<1>が試験<2>で良い結果を出しても、独立してパイプを作るのではなしに、その後も親方<3>の傍で仕事をすると云う事が時々起っていた。それは同業組合の規程に違反することであった;それゆえ1751年7月にもう一度、次のような決定がはっきりと表明された。『今後、弟子は同業組合においてパイプ製作に係る試験を受る。親方には自分独自の商標をつけることを義務づける』。

<1>Lehring:レーリンク,弟子か徒弟か?
<2>Prüfung:プリューフンク,徒弟制度での独立試験みたいなものかと想像します
<3>Meister:マイスター,これは親方でイイかと
この三つには他に日本語の専門訳語があるかも知れません。


§9. パイプ製作者数
 ハウダのパイプ工場には常に多くの人々が雇われていた。1665年にはすでに、同業組合の構成員は80人に達していた。およそ15年後の1679年には、その数は2倍になっている:この年に出されて残っている一通の請願書によると、161人の親方それぞれが平均で10人の作業員を雇っていた。この資料によると、その当時、少なくとも1,700人(女性は合算されていない)がハウダのパイプ工場に雇われていた。ピークは1800年代中期で、374人の親方が同業組合に登録されていた。
 おそらく次のように推測できる;当時少なくとも4,000人が、クレイパイプの製造に直接係って生活費を得ていた。仕事の大部分は運搬作業と上薬かけで、女性と子供が専従に雇われた。少なめにみてさらに3,000人の女性向きの仕事を見込めるので、1750年頃のハウダでは確実に7,000人がパイプ産業でパン代を稼いでいたと推定できる。パイプ産業には間接的な係りで次のような働き手がいた。おけ職人、かご職人、鋳型職人、粘土および泥炭採掘工<1>と運送船の船員<2>、パイプ商人、そして最後に陶工たちである。このような人達がさらに3,000人はいたであろう。1800年代中期の同業組合の古文書によると、当時のハウダの人口は全体で20,000人であったが、およそ10,000の住民が直接あるいは間接的にパイプ産業に係っていたと考えられる。また同業組合の幹部たちも総ての事を上手く処理しようと、多くの仕事を抱えて活動していた。

<1>泥炭Torf は 窯焼きの燃料と思われます。
<2>Frachtschiff:貨物(運送)船からの造語Frachtschifferが使ってあります。製陶産業で材料粘土の運搬には主として船が使われていたと思われます。
 #05へ続く
参考図
職人マーク
【写真説明文】
1800年代前半のパイプ職人をマークで表示した掲示板。1776年に新しく描かれて1869年まで使用された。多くのマークがこの時(1776)に削除されて、前記の時(1869)まで板の裏面を使って描き直したものが使われた。当時はまだ職人名の代わりにマークで表す習慣だった。この表示板は最初はハウダ市のHerthuys市場に在った同業組合の小部屋に掛けられていた。現在はMoriaan博物館にある。この板には永遠の願望を表す碑文なども書かれている<最下段のラテン語文のこと>; 
”神よ、われらの日々に平安を与えたまえ”<<独文訳から>>
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この後は、次の3節2頁余を2回で終える予定です。
#05:§国内の商敵
#06:§低迷,外国との競争,§終焉.