三浦ダム見聞記#04-鞍掛峠を越えて2018/01/14

ここで、三浦ダムの建設計画から工事に至る経過を簡単に整理します。

大正10年~大正14年(1921~25):ダムサイト選定(滝越、柳ケ瀬、三浦)
昭和元年~昭和4年(1926~1929):三浦候補地における詳細な調査、設計
昭和4年5月(1929):建設の許可申請(高さ84m、有効貯水量5,500万立米)
昭和7年8月(1932):許可が下りる(時は、不況のどん底)
・・・・・・御料局による計画区域の伐採(300町歩)
昭和10年10月(1935):実施認可申請(逓信省電力局)、起工式
昭和11年9月(1936):工事の請負契約(間組)
・・・
上の期間は、大正11年関東大震災から昭和11年2.26事件までの期間に相当します。
・・・
伝記の引用再開;
第三十一章に<三浦ダムの工事は停滞していた>から
 ダムの本体工事は、右岸に排水路を作って始められた。堤体の基礎掘削は、設計深さまで下がっても岩盤に割れ目があったので、予定より深く掘削し、最終的に百尺位になったという。
昭和13年暮れ(1938):降雪直前に初のコンクリート打設-80立米---
   この章の大部分は、木曽川最下流のダムである今渡ダムのことに割かれている。ここまで引用してきている本は、石川榮次郎氏の伝記です。氏は昭和4年以降はしばらくの間、別のダムを担当されたため、三浦ダムの建設初期のことは余り詳しく書かれていない。
 三浦ダムの建設は、大正12年の関東大震災から昭和恐慌を経て戦争に至る激動の時代の出来事、すなわち大正10年から昭和17年末までの長丁場である。
 昭和13年暮れに、三浦ダムでコンクリートの初打設にこぎ着けた大同電力株式会社は14年春に解散、国策の日本発送電株式会社(昭和14~26年)が誕生する。


1月27日土曜日:
 続きを書く時間がなかなか取れなくなったので、しばらくの間、古い写真を観察します。出典は、「間組百年史」(1989)と「流れとともに 石川榮次郎傳」(1955)。
 両者ともに非売品でしたが、現在はネット古書店で探せば入手可能でしょう。ブログ主は1年ほど前の購入以来、ず~っと枕元に置いて、ありがたく鑑賞させて頂いています。なお以下の写真はみな、百年史のページをデジカメで撮影して切り抜きました。

三浦ダム:コンクリート初打設
この写真は、上記した昭和13年暮れの様子です。

三浦ダム建設時の”間村”(労務宿舎)
左岸に造られた”間村”(労務宿舎)の様子。森林軌道の線路も写っています。

次は、いきなりですが、”湛水直後”。
湛水直後の三浦ダム
本文に、昭和17年10月2日に工事完了、10月8日に三浦貯水池湛水開始式典が行われたとあります(式典写真は末尾で引用)。上は昭和18年の中頃でしょうか? 宿舎の撤去も不十分なままで、急ぎ湛水せざるを得なかったそうです。

次は伝記からの写真です(これも本のページを撮影したもの)。上写真の状態よりも湖面の浮遊物が少ない。両岸には仮設備が残っています。
三浦ダムの堤体(下流面)と貯水池全景
下写真で、最奥の薄っすらした山なみは信飛国境。
この記事で副題にしている”鞍掛峠”は、左手前の黒い尾根に隠されて見えません。

最後の引用は、記念式典の様子です。
三浦ダム完成の式典




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