兼山ダム見聞記#062017/01/14

1月14日 寒波の土曜日

内務省の調査では、-三紀層と古生層の境界がダムサイト付近にある-
そこで、
新たな疑問1):三紀層と古生層の接触地点(不整合面)は何処にある?
河床に露出している岩盤の表面は泥やコケで厚化粧されているので、侵入防止柵の外からの覗き見ではなかなか正体が分かり難いです。

1月5日に投稿した、写真3の一部を拡大した写真を下に追加します。
兼山ダム前庭の露岩1
写真1
1月5日の心象は;
AとBは掘削後の整形が平滑に仕上がっているので三紀層か~・・正なら、左岸の大岩壁Cは三紀層と云うことになる。Aはダム工事の仮設的な堰でしょうが、用途は不明(後述する)。Bは同じく何かの作業ヤードでしょうか~
手前の河床露岩のDは、メランジェ風(笑)なので美濃(丹波)帯の地質かな・・・
*「余録」の「今渡ダムのような新第三紀層は此処には無さそうだ」は、初めは勢いで「三紀層は無い」と書いたが、確かめたことではないので直後に修正しました。

1月6日、八百津発電所からの帰途に、左岸からも写真を撮った;
左岸から見た兼山ダム前庭の岩盤
写真2
D文字のすぐ向こう側の、グチャグチャした縞模様は、いかにもメランジェっぽく見える-真なら、赤い点線辺りが不整合面と云うことになると予想するが、果たして。
(この想像がもし真ならば、ダム軸を上流へ60m移動させた意図が、)

話題を転換、ほかの写真を転載;
昭和13年12月撮影
昭和13年の兼山ダム地点
転載図版1
赤い矢印で示した”繁み”は、1月5日記事の図4(約10年後、昭和24年の米軍空中写真)にハッキリと写っています(図4の赤矢印の直ぐ下流にあります)。木曽川の水は左岸に沿った狭い幅を、半円を描くように流れている-ので、この視野では見えません。

昭和15年12月撮影
昭和15年12月工事中の兼山ダム
転載図版2
昭和14年6月15日の工事着手から1年半が経過したところです。川の中ほどから右岸の普段は流水がない区域を3ブロックに分けて、ダムの本体工事が進められています。

右岸掘削面の赤い矢印に注目;
黒い平行な筋が見えます。これは地層にできた割れ目で、おそらく堆積面に一致している。このように変形がほとんどなく整然とした構造を示すのは、普通は、三紀層(あくまでこの現場での話)。現在観察できる左岸には、このような模様は見えません(写真1)-此処の地層(三紀層)は、右岸側へ少し傾斜しているかも?
黄文字Dは、写真1と2のD露岩でしょうか-ここに平行な模様は見えない。
*<歴史>の解説は、右岸コンクリート壁の二つの穴を”取水口”と見て書いてありますが、位置が堤体の下流なので、”放水口”でしょう。

昭和16年5月6日撮影
昭和16年5月6日兼山ダム
転載図版3 洪水時の様子・・洪水吐14門はこれで納得。
この年には24回の洪水に襲われた。

昭和16年10月6日撮影
昭和16年10月6日の兼山ダム
転載図版4 着工から2年3か月余り;
仮排水路ブロックを除いて、堤体はほぼ出来上がっています。

写真右下に小さい堰が写っている-おそらく写真1のAです。河床の岩盤を掘削して池を作り(写真1)、下流に堰を形成(図版4)。河床砂利の”土留め”兼”沈砂池”として利用しているように見えます。

昭和18年12月26日撮影
昭和18年12月26日の兼山ダム
転載図版5
竣工2日前に撮影されました。堤体の前庭には仮排水路が未だ残されています。

半世紀ぶりに陽の目をみた写真なので、多くを転載しました。
次回は享保年間に遡る予定-


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